村の名前の由来ともなった大沼(グラン・マレ)に大きく張り出した半島状の丘の上に家々の屋根が並んでいる。
五〇戸は下らないだろう。子爵家の抱える村としては結構な数だ。
村は人の高さほどの石壁と堀で囲われている。農地を広げていく時に掘り出した石を積み上げて作ったらしい石壁には年季が入っており、苔生して蔦が這っていた。
石壁の前には堀が割ってあり、沼から引いた水が湛えられている。
冬の弱い陽射しを照り返す水面に魚が跳ねていた。
「良さそうな村じゃないか」と呟き、テオドールは目を細める。
これから、ここで働けるかもしれない。そう考えると胸が熱く� �ってくる。紙の上で全てが完結してしまう代書屋の仕事にはない、"匂い"のある仕事だ。
就職に失敗すればトリステイン法学院時代の旧友エリック・ダストンに会いに行けばいいと自分に言い聞かせてきたテオドールだったが、それでもここで働ければそれに越したことはない。
「確かに。土も富んでいて、良い地虫が採れそうですな」とラッキーも彼なりの言葉で土地を褒める。この奔放な使い魔は許可を求めるようにテオドールの方を一瞥すると、早速探検に飛んで行ってしまう。一羽の雄として、新天地での縄張りはなるべく良いところを取りたいのだろう。
ラッキーを見送りながら、テオドールは布鞄を背負い直す。住み慣れたトリスタニアを発ってまだ二晩しか経っていないが、随分と遠くまで来たような気が するのが不思議だ。
板葺き屋根の波の向こうに浮かぶ島のような館が見える。テオドールの目指すレスピナス子爵の館だろう。背後に巨大な岩塊を背負うように建つ館は、どちらかと言えば城のような印象を与える古風なものだった。
前カーペー朝時代の様式に則って縄張りされた城には威圧感があるが、のどかな村に孤立するようにそびえる様に滑稽さを感じないでもない。
別れたばかりの駅長の言葉がテオドールの頭を過ぎる。先入観を持つべきではない。
どんなに良さそうな村にも必ず問題点はあるし、人がどれほど悪く言っていても領主が悪い人間とは限らない。
テオドールは意を決し、堀に渡された小さな橋を渡って門におとないを入れた。
門番が門扉の横の覗き窓から顔を出す。老人だ。
こんな寒い冬の朝にどうしなすったねと言いながら窓の横の小さい扉を開けてくれる。大門の方は頑丈な閂がしてあり、普段使いはしていないようだ。
子爵に目通りしたいという旨を伝えると、門番は慌ててその辺りを歩いていた若者を捕まえた。子爵の屋敷まで走らせるのだという。デュ・カタンが来たと伝えれば分かると思う、とテオドールが言うか言わないかの内から若者は丘の上を目指して走り出していた。
冬の村は喧騒に満ちている。
野良仕事の出来ない農閑期の間、村人たちは村の中で細々とした内職をしたり、炉端で昔話に興じたりする。藁を打つ音や農耕馬の嘶き、子どもたち楽しげな声が響く中を、テオドールは子爵の館に向かう。
並ぶ家々は粗末な造りのものが多い。
土壁と板葺� �の屋根。前庭で少しの野菜を育て、鶏を何羽か木の柵で囲って育てている。石造りの家や、スレート葺きの家はほとんどない。少し開けたところにある寺院と旅籠だけが少しは見られた造りをしているが、それ以外はアルヴィーの背比べだ。
どのような人はロバート·E·知ってはいけない。
行き交う村人たちは皆、のんびりとしている。パン屋の騾馬が練ったパン生地を運んでいく。蓄えていた小麦を水車小屋に挽いて貰いに行く者や、家で妻に紡がせる糸の原料を納屋から運び出す者、何に使うのか頭陀袋のようなものを担いで出かけていく者など、ヤラの月の農村としては活気がある。着ているものはみすぼらしいが、これより酷い村をテオドールはたくさん見てきた。
半分が丘の斜面に埋まったパン焼き窯からパン焼ける香ばしい匂いが立ち昇る。この村ではパン窯の余熱で風呂を焚いているらしい。斜面の上には風呂屋を示す看板が掛けられた掘っ立て小屋が立っている。風呂は村人同士の大切な社交場だが、整備されていない村も多い。
後で入れて貰えるだろうかと考えながら、テオド� �ルは所々岩盤が剥き出しになった丘を登っていった。
歩きながら家の構えを見ていたテオドールは不思議な事に気が付いた。
「家紋かな?」
門扉に小さな兎をかたどった紋が飾られている。だが、家紋であるはずはない。
家紋を掲げることが出来るのは、貴族の特権だ。トリステイン王国では権勢を誇る商人ですら家紋を付けることは認められていない。こんな辺鄙な農村の平民が家紋を使っていることが法院の耳に入れば、莫大な懲罰金を払わされることになるだろう。
ところが、この家紋らしきものを掲げている家は一軒だけではなかった。
ほとんど全ての家の門の上に、兎か水滴をあしらった紋章が掛けられている。兎紋といえばレスピナス子爵家の紋章で、とても珍しいものだったと記憶して� �る。確か、初代のレスピナス子爵の使い魔が兎だったのが由来だと年鑑には記されていた。
水滴紋にも、見覚えがある。"水の王国"の雅称を持つトリステイン王国には水をモチーフとした家紋を代々受け継ぐ家門はとても多い。種類も多様で、水滴の形でどこの家系のどの分家かも分かるように王立紋章院によって整理・分類されている。
掲げられている紋は、水滴紋の中でも大元の一つとされる涙滴様水滴紋と呼ばれるものだ。水の精霊との交渉役を代々仰せつかっているモンモランシ伯爵家の本家と庶流が特にさし許された意匠だったはずだ。
目で数えてみると、レスピナスの兎紋の方が多いが、四軒に一軒くらいの割合で水滴紋を掲げている家もある。
何故、村の家の中にレスピナスの紋とモンモランシの� ��が併せて飾られているのか。
テオドールがそのことに思案を巡らせようとしたその時、丘の上から馬が二騎、駆け下りてきた。
「あなたがデュ・カタンさまですね」
馬から降りたのは、美しい女性だった。
濃い蜂蜜色の長髪に柔らかそうな白い肌。意思の強そうな太い眉の下に、赤い瞳が燃えている。歳の頃は十八くらいだろうか。愛くるしさと気丈さの同居した、どこか兎を思わせる雰囲気がある。見るまでもなく腰には小ぶりの杖を吊っていた。
急いで出てきたのか、部屋着にズボンを履いただけのような格好だ。
「レスピナス子爵オリヴィエが妹、アンヌ=マリー・ド・レスピナスです」と深々と礼をする。
「兄の名代として、迎えに参上いたしました」
馬発熱クリス·トーマス
「お初にお目にかかります、アンヌ=マリーさま。お招きに与かり参上いたしました」とこちらも丁寧に応じながら、テオドールは自己嫌悪に陥っていた。
自分の名を名乗れない。これは貴族の末に連なる者として、恥ずべきことだ。しかし、ここで名乗るわけにもいかない。名乗ってしまえば、それでおしまいだ。レスピナス子爵が自分の妹を迎えに出してまで廷臣に迎えたいのは、大叔父だ。自分はではない。
名を名乗らないことで相手を騙す。最低の行為に、良心が痛む。
だが、ここで雇って貰えなければ、またトリスタニアに戻って代書屋稼業で糊口を凌がねばならなくなる。少なくとも子爵に会うまでは正体を隠しておかなければならない 。
そう思ったテオドールに、アンヌ=マリーは柔らかく微笑みかける。
「ええ、存じております。テオドールさま」
どういうことだ。
今、目の前のアンヌ=マリーが呼んだのは、「デュ・カタン」ではなく「テオドール」という名だった。大叔父の名ではなく、自分の名が呼ばれたのだ。
レスピナス子爵のオリヴィエという人物は、アルベール・デュ・カタンではなく、テオドール・デュ・カタンを廷臣として招聘したということか。二十七にもなって、まともな名声も無い人間を廷臣として迎えるなどという酔狂な人間がトリステイン王国にいるとはまったく新鮮な驚きだった。
一体、どこの誰が子爵に自分を紹介してくれたのか。そもそも手紙にあった約束とは、何か。
頭の中で疑問が飛び 交うが、腑に落ちることもある。
あの封筒を手に取った時から感じていたことだ。
肉屋の上階にあるあの下宿にテオドールが住み始めたのは、ほんの一年前のことだ。大叔父はもちろん既に亡くなっていたし、テオドール自身も大叔父の葬儀の後、何度か住まいを移している。アルベール大叔父が亡くなったことを知らない人間では、あの住所に宛てて手紙を出すことなど出来ないのだ。
それに、あの手紙の封蝋には『固定化』の魔法が掛けられていなかった。
人から人に渡される郵便物の封蝋に『固定化』の魔法を掛けておくのは、トリステイン貴族の一種の嗜みだ。だが、逆に『固定化』を掛けない方が良い場合もある。信頼のおける人間に、直接届けさせる場合だ。
あの封筒には、五エキューもの金貨� ��同封されていた。もし、人伝てやフクロウ便に頼るのであれば、封蝋に『固定化』を掛けないことは考えられない。
つまり、あの手紙は、直接届けられたのに違いなかった。
テオドールの名をどうして知っているのか、問い質すべきか。
いや、そんなことはするべきではない。
表情を隠しながら考えを巡らせる。
大叔父を呼んだと思い込んだのは、テオドールの側の問題だ。相手としてはテオドールを呼ぼうとして、実際にテオドールが来たに過ぎない。そこには何の誤謬も齟齬もない。要らぬ詮索をして荒立てるのは得策とは言えなかった。
鷹揚に構えていれば良い。
王都で無聊をかこっている下級貴族が田舎諸侯の招きに応じて参じた。それだけのことだ。テオドールの名をどこで聞いた� �かも、子爵自身から説明があるだろう。
ひょっとすると前の雇用主にテオドールの素性を確かめているかもしれない。見も知らぬ人間を廷臣の列に加えようというのだから、それくらいはして当然だろう。
"ああマリー"を歌っている黒のアーティスト
何故暇を出されたのかと聞かれたらどうしようか。
そんなことを考えながら、勧められるままに馬に跨る。
乗馬があまり得意ではないテオドールもすんなりと乗ることが出来たのは馬がよく訓練された軍用馬だからだろう。太股を通して伝わる馬の体温が冷え切った体に心地よい。
丘の斜面をゆっくりと登る。
アンヌ=マリーの方を見ると、あちらもテオドールのことを見つめていた。視線が重なり、相手が微かに微笑む。
笑うと、えくぼが出来る。
その笑顔をどこかで見たような気がするのだが、どうした訳かどこで見たのか思い出せない。そうこうする内に、一行は丘の上の城壁に囲まれた地区に辿りついた� ��
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民は耕すもの、坊主は祈るもの、そして貴族は戦うもの。
古くから言い慣わされたこの言葉はハルケギニアに住まう人々にとって、始祖の定めたもう役割の神聖な分担であり、朝になれば陽が昇るくらい当たり前のことだった。
特に貴族はこの分業に煩い。
戦うことは貴族にとって義務であり、使命であり、権利であった。
であるからには、貴族の住まいもそれに相応しくなければならない。
レスピナス子爵が住まう城館も、そういう考えに基づいて建てられていた。
自身の城館と廷臣の邸宅とを取り巻く城壁には頑丈な門扉が取り付けられ、鋳鉄製の落とし格子も備えられている。不意の戦が始まっても、トリステインの王軍が援軍に到着するまで独力で持ちこたえることを主� ��に置いた構造になっている。
「変わった造りですね」
レスピナスの館は、背後の岩塊にめり込むようにして建てられている。厩舎や鳩小屋、井戸といった設備を内包する為、城壁の中はどうしても手狭になるからだ。
「そうでしょう。私のご先祖様が建てた自慢のお城です」
夏は涼しく、冬は暖かいんですよとアンヌ=マリーが楽しそうに説明する。洞窟内に建てられた館は一年を通じて気温があまり変わらないのだという。
豪奢というよりも剛健と言った方がこの館には相応しい。
『土』魔法によって岩塊をくり貫いて造ったという館の中は、確かにアンヌ=マリーのいうように温かかった。
ざらつく岩肌を丁寧に魔法で均してあるので貴族の館としても無骨過ぎるということはない。水晶を模� �た魔法燈のほのかな光が照らし出す室内は、王都の貴顕が住む館よりも幻想的ですらあった。
長い廊下にはさまざまな調度が飾られている。
全て銀で作られた軍杖や兎紋が金糸で縫い取られた陣羽織など戦場に用いるものが多いようだが、トリステイン王家の紋章をあしらった砂金の砂時計など文化的な価値のありそうなものも少なくない。
壁面には歴代当主の肖像画が飾られている。
同じ血を引くというだけあって累代の当主の顔はよく似ていた。少し痩せぎすの男たちの目が遠く虚空を見つめている。
ここに来てテオドールは初めて気が付いた。しまった、旅装のままだ。
沐浴はともかくとして、旅塵を落としてからでないと貴人に対する謁見の儀礼も何もない。
そのことをアンヌ=マリー に伝えると、彼女は意味深な微笑を浮かべる。
「構いませんよ。そのままお連れしろとの命ですので」
「しかし」
「少しでも早く会いたいそうなのです、テオドールさまと」
そこで不意に、アンヌ=マリーの口調が変わる。
「兄は、篤い病に冒されています」
「病、ですか」
「ええ、比喩的な意味ではなく」
慢性的な吐き気と便秘、貧血。意識の混濁。
アンヌ=マリーの口から語られる子爵の病状に、テオドールは逃げ出したくなった。それは病人とは言わない。半死人というのだ。
『水』のメイジでも杖を投げるような状態の子爵が、なぜ自分を招いたのか。
子爵が病だから、自分が招かれたということか。
ただ、自分で言うのも変な話だが、病身の当主の代わりに政務を執らせる人間としてテオドールは不適格だろう。能力や識見、経験はともかくとして、名声がない。テオドール自身が子爵であれば、よほどの理由� ��なければテオドール・デュ・カタンを招くつもりにはならない。
その、「よほどの理由」がテオドールには思いつかない。
「テオドールさま。兄を支えて下さいまし」
灯りの加減で、彼女の表情はうかがえない。
何か気の利いた言葉を返そうと頭をひねるが、出てこなかった。
アンヌ=マリーが立ち止まると、一際しっかりした造りの扉をノックする。部屋の中には一人で入って欲しいと目で促される。
目を瞑り、小さく息を吸う。鼓動が、早い。
「入れ」
弱々しい男の声が聞こえる。
テオドールは、扉を押し開けた。
部屋には病室特有の甘ったるい匂いが満ちていた。
部屋は、暗い。
唯一の光源である暖炉では薪が耳良い音を立ててはぜている。廊下よりも暖� �い。
部屋の真ん中に鎮座する巨大な天蓋付きのベッドに、子爵は横たわっていた。
「近くに」
かすれる声で子爵に呼ばれ、テオドールはベッドに近寄った。
暖炉のかすかな明かりの影になり、顔はよく見えない。
恭しく膝をつき、杖を外す。
「テオドール・デュ・カタン、お召しに従い参上いたしました」
神妙な顔をして口上をいうが、返答はない。
妙だな、と思い顔を上げようとすると、くっくっくと忍び笑いが聞こえる。
誰が笑っているのだろう。まさか、子爵が。
意図せず、顔を上げてしまう。
そこには、懐かしい顔があった。
「よぉ、テオドール。久しぶりだなぁ」
ベッドに横たわっていたのは、エリック・ダストンだった。
□
「お い、エリック、悪ふざけは止せ。早く降りろ、そこは子爵さまのベッドだぞ」と慌てるテオドールにエリックは楽しげに眼を細める。
「おお、如何にも子爵さまのベッドだ。ふかふかで寝心地が良いぜ。トリスタニアの安下宿の藁布団とはえらい違いだ」
「馬鹿、なら早く降りろ。部屋の外には子爵さまの妹御もいらっしゃるんだぞ」とテオドールが叱っても素知らぬ顔だ。記憶の中にあるエリックはこんな悪戯をするような人間ではなかったはずなのだが。
そこで、エリックは一つ咳払いをする。
「よく来た、テオドール・デュ・カタン。レスピナス子爵であるオリヴィエ・シャルル・ル・コント・ド・レスピナスは貴殿を心待ちにしていた」
急に威厳が出たエリックにテオドールは戸惑いを隠せない。
� ��ういうことだろう。今、エリックはオリヴィエと名乗らなかったか。
エリックは悪戯が成功した悪童の笑みを浮かべる。
「つまり、レスピナスの子爵はオレなんだよ。法学院で名乗っていたエリック・ダストンは偽名だ」
そして、真面目腐った顔で言葉をつづけた。
「テオドール・デュ・カタン。貴殿をレスピナス子爵の名代たる代官に任命する」
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