2012年4月30日月曜日

自尊心から神尊心へ



平和
「平和」それは、読んで字の如く、平らかで和やかなこと。
強風もなく、高波もなく、嵐もなく、地殻変動もない。
そして、声を荒げる者もなく、高ぶる者もない。
良く言えば静かで穏やか
少しうがった表現をすれば平凡で変化のない世界

 そのような時代が長く続くと変化や刺激を求める輩、自分の立ち位置について、もっと高みを望んでも良いのではないかと疑問を抱く輩が生まれます。

「なぜ私はあの人より下なのだろう、なぜあの人は私より上なのだろう。」

「私は相手から見下されているのではないだろうか。」

 こうした疑問が個人レベルで起これば喧嘩、集団レベルで起これば闘争、そして国レベルでは紛争、戦争へと発展していきま す。

 ある説では、人類史上戦争の無かった時代は30年と保(も)たなかったと言われます。必ず地球のどこかで戦争が行われてきたということなのでしょう。日本が戦争をやめて60年間、確かにわたしたち日本人が戦争を身近に感ずることはありませんでした。しかし、第二次大戦後にも、朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、核による東側と西側の冷戦、ボスニア紛争、フォークランド紛争、湾岸戦争、インドネシアの東ティモール独立紛争、ルワンダの内紛、そして9.11に始まるアメリカによるアフガニスタンへの報復とイラク戦争、更にその火種は現在、北朝鮮へと拡大しつつあります。

 世界の人口が65億とも66億とも言われる今日、人間が引き起こすさまざまの争いは、わたしたち一人ひとりにとって� �か遠くの出来事として抱きがちです。確かに遠い国の出来事なのかも知れませんが、仮に世界中の人を一堂に会し全人類集会を開催しようとしたら、なんと琵琶湖ほどの面積で事足りるのだそうです。

 たったそれだけ?

 そう、たったそれだけなのです。

 たったそれだけの"種"が、大きな顔して地球を支配しているかのように君臨し、たったそれだけの"種"が、たった30年ほどの平和をすら維持できないのです。もしも全人類集会を開催し、互いに互いの顔を見合わせ交流することができたなら、争いは今ほど大規模なものではなくなるのかもしれません。何故なら、わたしたちが脅威や恐怖を抱く対象は、殆どの場合相手を「知らない」か相手が「分からない」ためであることが多いように思うからです。まず 知ること、そして理解すること、それこそが争いを防ぐいちばんの近道なのではないでしょうか。

不平等・不公平
 実際には全人類を一カ所に集めて集会を開催することなどできませんから、世界各地で博覧会などの文化交流、オリンピックなどのスポーツによる交流が催されてきました。
 こうした大会だけでなく、世界中の人々がその場に居ながらにして世界の状況を見聞きすることのできるマスメディアも発達してきました。新聞、ラジオ、テレビ、人工衛星、電話、FAX、インターネット。しかし、皮肉にもこれらの技術の殆どが軍事、つまり人を殺すための技術から発展してきたものばかりです。


ラッパーの奇妙な体重減少

 また、世界各地で開かれてきたと思われているさまざまの世界大会も、開催のためのノウハウや施設を整えることのできる地域に限られてきました。つまるところその殆どが北半球だけで行われ、これらの恩恵を享受できるのは世界人口の半分にも満たない先進国の人たちばかりであるという現実があるのです。

 わたしたちは、ついつい自分を基準に世界を見てしまいがちです。自分が字が読めること、水道から水が飲めること、電気の明かりがともること、電話を携帯すること、自分が当たり前だと思っていることが、全世界規模で考える時には当たり前でないことに気付きにくい者です。

 しかし、当たり前ではない第三世界の状況と思われている ことが、実は少し前まで日本もそうであったことにわたしたちは案外気付いていないのです。
 明治維新、徳川慶喜が大政奉還した1867年は、遙か昔のことのように思われますが、よくよく考えてみれば今から僅か139年前でしかありません。長寿番付110歳と言われる今日、今を生きる長寿者が生まれる僅か30年前まで、我が国はまだチョンマゲ姿だったのです。決して遥か昔のことではありません。

 いったい139年前当時に、どれほどの数の日本人が世界について知っていたでしょう。一部の階級を除いて殆どの国民が、地球が丸いことすら知らなかったのではないでしょうか。そして大半の国民は知らぬまま、分からぬままに明治以後、日清戦争(1894.8-1895.4)、日露戦争(1904.2-1905.9)、第一次世界大戦(1914.6-1918.11)、第� �次世界大戦〜太平洋・大東亜戦争(1939〜1941.12-1945.8)に翻弄されて来たと言えます。

 わたしたち日本国民の殆どはその間、世界博覧会もオリンピックも、サッカーワールドカップやテニスの国際大会などが各地で開催されていることすら知りませんでした。わたしたち庶民がそうしたことを知り得るようになったのは、第二次世界大戦敗戦からの僅か60年間でしかないのです。

知ってるつもり
 わたしたちは、わたしたちがかつてそうであったように、わたしたちが世界を知り得るようになったからといって、世界中の人々がわたしたちを日本を知り得ているかといえば決してそうではないということを知らなければなりません。隣国である北朝鮮や中央アジアの奥地、アマゾンの密林、アフリカの� ��開の地に住む人々の中には、自分達と肌の色が異なる民族が世界に暮らしていることすら知らない人々が今も生きているのです。そしてそのような人々が世界人口の実に多くを占めていることを、わたしたちは知っておく必要があります。

 知らない相手と相対するとき、上手くコミュニケートできなかったらどうしよう、攻撃的な相手だったらどうしよう、自分をちゃんと理解してもらえるだろうかと、さまざまの不安がつのります。しかし、相手を少しでも知っていれば「こんな風に向き合うと良いかもしれない」といった具合にイメージができるものです。尤も、イメージ通りにいくものではありませんから、経験を基に小さな修正をする必要はありますが、イメージを持っていれば余程のことがない限り脅威を感ずるこ とはないでしょう。ところが相手のことを何も知らないで相対することは大変な緊張と、場合によっては恐怖さえ抱くことだってあるかも知れません。国際的なことばかりでなく、身近な相手に対しても同じことが言えます。


追いかけて車を歌う人

キレる
 近年「キレる」という言葉をよく耳にするようになりました。
 かつて「切れる」と言えば「頭が切れる」とか「切れ者」といった具合に褒め言葉として使われていましたが、最近の「キレる」は「堪忍袋の緒が切れる」や「頭の血管がブチ切れる」を語源として、怒りが頂点に達した状態を表現することが多くなってきたようです。いったい、わたしたちはどういった状況で怒りが頂点に達し、「キレる」のでしょう。

 それは相手に自分の基準を当てはめ、理解できないと「キレる」ことが多いのではないかと思います。つまり、相手を理解する前に「キレる」のです。ゆっくりと関係を作り上げていくこと、時間を掛� ��て相手を理解することができない面倒くさがり屋が増えたということでしょうか。すぐに結果を欲し、望んだ結果が得られないと「キレる」。

 子ども同士でキレる、子どもが大人に対してキレる、大人が子どもにキレる、大人同士でキレる。
 最近の若者の中には、携帯やパソコンの掲示板やサイトで知り合い、自分に都合良く相手のイメージを作り上げてしまうことが多いように思います。実際に会ってみると自分の作り上げたイメージとのギャップに「こんなヤツだとは思わなかった」とキレたり、誰かと深く繋がった経験の乏しい者、心と心で向き合う対話を面倒くさがる者がキレてしまうのかもしれません。残念ながらこうした傾向は子どもばかりでなく大人にも拡がってきているように感じられます。つまり、我慢� �できないのです。

 最近は、子どもも大人も堪忍袋が小さくなっただけでなく、それを閉じる紐緒が随分と細く弱くなってきているのではないでしょうか。頭の血管に喩えるなら、随分と細く脆い血管になってしまっているのかも知れません。しょっちゅう、ブチブチ切れてしまいます。何故なのでしょう?

比較の中の自尊心
 そこにはキーワードとして「自尊心」が隠れているように思います。
自尊心は「自分で自分を尊いと思う心」。もっと言うと自分のことを「優秀で品位ある者であると尊大に構える心」のことを言います。プライドという言葉に置き換えて良いかもしれません。この自尊心が傷付けられたと感じた時に、人はキレるのです。自分を優秀で品位ある者と考える時、� ��々にしてそこには比較が生じています。

 わたしたちはいったい誰に対して、誰と比べて自分が優秀であり品位が高いと考えているのでしょう。自分より劣ると感ずる相手、自分より下品だと思う相手から自分の方が劣る、自分の方が下品だと揶揄(やゆ)され、攻撃されたと感じた時にキレるのではないでしょうか。どこかで「自分の方が上なのに…あいつはいったい何様のつもりなんだ!!馬鹿にしやがって!!自分の方が上だと思い知らせてやる!!」と思っているのでしょう。

 口では平等とか差別はいけないとか言いながら、どこかで誰かに対して「自分はあいつより上だ」と思っていたり、自分がそうした比較の中で生きていることに気付いていないのではないでしょうか。職場での上司、部下との 関係、学校での教師、生徒との関係、友人関係、または家族での親子、兄弟姉妹との関係の中に、実はわたしたちはこうした固定観念を抱きやすい者なのです。


チャートトルコのトップ10

真の価値
 確かに誰かと向き合う時、そこには年齢、体力、収入、技術、経験に差があることは事実です。それらの事柄によって人から敬われることもあるでしょう。しかしそれらは、多い少ないの量の問題であって、人の価値の上下を決める問題ではないはずなのです。

 主なる神様は聖書の中で私たち一人ひとりについて「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛する。(イザヤ書43章4節)」と仰っておられます。
 ここで言う価の高さは年齢の高い低いで判断されるということなのでしょうか、それとも体力や収入、技術や経験、あるいは社会的地位の高い低いで判断されるということなので� ��ょうか。
 そうではありません。神様はわたしたちが何かを持っているとか持っていないとか、何かが出来るとか出来ないとかの一部分を捉えて私たちの価値を測っておられるわけではないのです。

 では、神様はいったいわたしたちの何に対して「価高く、貴い」と言われているのでしょう。
 それは、わたしたちが神の作品であるこによっています。
 わたしたちの身体は母の胎の中で遺伝子によって形作られました。しかし、そこに命と魂を吹き込んだのは神ご自身です。人の遺伝子も、動植物の遺伝子も創造主なる神によって制御されてきたものです。人はようやくその遺伝子の存在に気付き制御を試み始めたばかりで、人には命そのものを生み出すことも魂を植え付けることもできません。人� ��母の胎によって人を生み出すことはできても、人を造り出すことはできないのです。

 主はエフェソの信徒への手紙第2章10節で、パウロを通して次のように語られています。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

真の自尊心
 真の自尊心、それはわたしが神の作品であることを自覚することから始まります。わたしたちが優れているのは、わたしたちの努力によるのではなく、優れた方の作品であることによっています。そしてわたしたちの品位・品格は神の品位・品格を� ��す時にこそその真価が輝きを増します。創世記第1章27節「神は御自分に象(かたど)って人を創造された」と記されているのはこのことなのです。わたしたちに人格が与えられたのは主の神格を映すためであり、自分自身を神殿として主の聖霊を宿すためです。つまり、真の自尊心とはベースにある主尊心を理解することです。主尊心自尊心と共に他尊心を産み、互尊心へと成長していくのだと思います。


 わたしたちが自尊心を傷付けられたと感じた時、傷付けた相手もまた神の作品です。たとえ相手を尊べなくとも、相手を創造された神様を尊ぶ心までも失ってはなりません。このような事態に出会(でくわ)した時に、わたしたちは憎しみの感情に任せて相手に復讐を誓うのではなく、神様にその痛み悲しみを打ち明け、神様によって悪を取り除いていただくために祈ることが、和解のための唯一の方法であろうと思うのです。もちろん、わたしたちは感情の生き物ですから、そうすることが決して容易でないことは解ります。しかし、そうでなければ復讐は復讐を産み、報復合戦に血で血を洗う戦争は止むところを知らず延々と続くことになるのです。

 主は悲しんでおられます。ご自身の作品が互いに互いを傷つけ合い血を流し殺し合っていることに。主もまた傷んでおられるのです。

愛 
 今日のテキストの中で、主イエスは神様からの最大の掟として「互いに愛し合いなさい」と教えられます。愛は優しいようでいて、コリントの信徒への手紙T第13章4〜7節に 《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える》と記されているように実に厳しくもあり、また、難しいものでもあります。しかし、そのすべてを主イエス・キリストはわたしたちに十字架上で示してくださいました。わたしたちを罪と死の奴隷から贖う(買い戻す)ために、命を投げ出してくださったのです。主はこの「わたしの愛にとどまりなさい」と言われています。人が互いに自分を誇ることなく、主を誇り、主の愛にとどまる時に、本当の意味で「互いに愛し合う」ことができるのです。

ヨハネ第1の手紙4章7〜11
 7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

平和を実現する
 わたしたちが一人ひとり神に愛されていることを知り、まだ知らない者に神の愛を述べ伝えていくこと以外に、本当の意味での平和は実現できないのです。
 わたしたち一人ひとりにできることは限られているかもしれません。けれども、それぞれが自分の身近に真の平和を実現していく努力を重ねること、それがやがて世界の平和に繋がっていくのではないでしょうか。

 主は言われます。
 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と…
(マタイによる福音書第5章9節)。



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