平和
「平和」それは、読んで字の如く、平らかで和やかなこと。
強風もなく、高波もなく、嵐もなく、地殻変動もない。
そして、声を荒げる者もなく、高ぶる者もない。
良く言えば静かで穏やか
少しうがった表現をすれば平凡で変化のない世界
そのような時代が長く続くと変化や刺激を求める輩、自分の立ち位置について、もっと高みを望んでも良いのではないかと疑問を抱く輩が生まれます。
「なぜ私はあの人より下なのだろう、なぜあの人は私より上なのだろう。」
「私は相手から見下されているのではないだろうか。」
こうした疑問が個人レベルで起これば喧嘩、集団レベルで起これば闘争、そして国レベルでは紛争、戦争へと発展していきま す。
ある説では、人類史上戦争の無かった時代は30年と保(も)たなかったと言われます。必ず地球のどこかで戦争が行われてきたということなのでしょう。日本が戦争をやめて60年間、確かにわたしたち日本人が戦争を身近に感ずることはありませんでした。しかし、第二次大戦後にも、朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、核による東側と西側の冷戦、ボスニア紛争、フォークランド紛争、湾岸戦争、インドネシアの東ティモール独立紛争、ルワンダの内紛、そして9.11に始まるアメリカによるアフガニスタンへの報復とイラク戦争、更にその火種は現在、北朝鮮へと拡大しつつあります。
世界の人口が65億とも66億とも言われる今日、人間が引き起こすさまざまの争いは、わたしたち一人ひとりにとって� �か遠くの出来事として抱きがちです。確かに遠い国の出来事なのかも知れませんが、仮に世界中の人を一堂に会し全人類集会を開催しようとしたら、なんと琵琶湖ほどの面積で事足りるのだそうです。
たったそれだけ?
そう、たったそれだけなのです。
たったそれだけの"種"が、大きな顔して地球を支配しているかのように君臨し、たったそれだけの"種"が、たった30年ほどの平和をすら維持できないのです。もしも全人類集会を開催し、互いに互いの顔を見合わせ交流することができたなら、争いは今ほど大規模なものではなくなるのかもしれません。何故なら、わたしたちが脅威や恐怖を抱く対象は、殆どの場合相手を「知らない」か相手が「分からない」ためであることが多いように思うからです。まず 知ること、そして理解すること、それこそが争いを防ぐいちばんの近道なのではないでしょうか。
不平等・不公平
実際には全人類を一カ所に集めて集会を開催することなどできませんから、世界各地で博覧会などの文化交流、オリンピックなどのスポーツによる交流が催されてきました。
こうした大会だけでなく、世界中の人々がその場に居ながらにして世界の状況を見聞きすることのできるマスメディアも発達してきました。新聞、ラジオ、テレビ、人工衛星、電話、FAX、インターネット。しかし、皮肉にもこれらの技術の殆どが軍事、つまり人を殺すための技術から発展してきたものばかりです。