「マタイ」におけるコラール
J.S.バッハマタイ受難曲へ戻る
参考サイト;The Online Library of Liberty
バッハはコラールを「マタイ」の要所要所で用い、文章にたとえればコンマやピリオドの役割を受け持たせている。このページでは「マタイ」のコラールの一つ一つについてその役割を見ていきたい。(コラールの総論的なことに関してはバッハのマタイ受難曲の構成のページ参照のこと)
第1番N.ディーチウス作詞・作曲(1522)第一節 <O Lamm Gottes ,unschuldig >
「マタイ」冒頭合唱のうちコラールのあるところのみつなぎ合わせたもの
コラール編曲(BWV401)
おお、神の小羊、罪なくして
おお十字架上にほふられた御方よ。
あなたはいつも忍耐を貫かれた、 辱めを受けたにもかかわらず。
あなたはすべての罪を背負ってくださった。
そうでなければ、私たちの望みは絶えたに違いない。
私たちを憐れんでください。
おおイエスよ!
このコラールは冒頭合唱曲に組み込まれ、「マタイ」でこれから進んでいく物語を俯瞰している。そしてシオンの娘たちの歌う第一合唱、信じる人たちの歌う第二合唱を統合して神の世界を示す役割を果たしている。さらに合唱によって花婿ないしは小羊にたとえられた「あの� �」が最終的に「イエス」であることを告げる役割もしている。
なお、バッハがいかにこのコラールを巧みに使用しているか、上記の二曲を聴き比べてみてください。同じ旋律が編曲によってまったく異なった曲に聴こえます。
第3番J.へールマン作詞(1630)第一節 クリューガー旋律<Herzliebster Jesu >
♪曲を聴く
心からお慕いするイエスよ、どんな罪を犯されたのですか。
これほど酷い判決をお受けになられるとは。
その咎はなんでしょう、いったいどんな悪事に加わられたのですか?
「人の子は渡され、十字架につけられるだろう」というイエスの言葉を受け、その理不尽な判決に対する大衆の不満をコラールが歌う。無実の罪に問われたイエスへの深い同情がある。
なお、バッハはこのクリューガー作のコラールを「マタイ」において3回使用しており、それぞれの場面に合った編曲を施している。たとえば25番のコラールではテノールソロの合いの手としてバスを常に八分音符で動かし、第55番では「彼を十字架につけよ」という民衆の叫びへの� �発として和音を転回した形で曲を開始させていることなど。
第16番P.ゲーハルト作詞(1647)第五節 イザーク旋律<Ich bins,ich solte buessen>
♪曲を聴く
♪インスブルックよさようなら(by Isaac)
私です、私こそが償うべき者です。手足をいましめられ、地獄につながれて。
鞭や縄、あなたの耐えられたものは、私の魂にこそふさわしいのです。
あなたは空気今夜に感じることができる
イエスがユダの密告を弟子たちに告げ、弟子たちが互いに疑心暗鬼となって口々に「主よ、(裏切ったのは)私ですか?」と叫んだあとに現れるコラール。ここでは「主イエスキリストが私のために十字架につけられたのである、本当は私こそが十字架につけられるべき存在なのである」というまさにキリスト教信仰の真髄が歌われている。マタイ受難曲第16番のページ参照のこと。なお、このコラールの旋律はイザークの有名な「インスブルックよさようなら」であるが、実際にはだいぶ原曲とは異なる。
第21番P.ゲーハルト作詞(1656)第五節、ハスラー旋律<Erkenne mich,mein Hueter>
♪曲を聴く
私を知ってください、私の守り手よ。私の牧者よ、私を受け入れてください。
あらゆる宝の源であるあなたから私は多くの善きものを受けています。
あなたの口は私を乳と甘い糧で力づけてくれました。
あなたの霊は私に天上の愉悦を恵んでくださいました。
ハスラー作の受難コラール第一回目。(なお、受難コラールの聴き比べは第21番のページのページ参照)第20番でイエスが自らを羊飼いに擬しているのを受け、このコラールでは会衆が羊に擬せられている。そして暖かいイエスの愛をたたえ、"私を知ってください"とせつにイエスからの愛の受け入れを願う。
第23番P.ゲーハルト作詞(1656)第6節、ハスラー旋律<Ich will hier bei dir stehen >
♪曲を聴く
私はここ、あなたのみもとにとどまろう、私を退けないでください。
あなたから離れますまい、御心が傷つき破れる、このときに。
あなたの心臓がとどめの一突きに血の気を失うとき、
私はあなたをこの腕のふところにお抱き申しましょう。
受難コラール第二回目。いよいよ「マタイ」にペテロが登場し、ペテロや他の弟子たちがイエスに調子のいいことを話したあとに会衆もまたこのコラールにてイエスへの忠誠を誓う。これはつまり人間というものは当時のペテロや弟子たち同様、いくら調子のいいことを言っていたところでいざとなると恩師でさえ平気で裏切リ得るものであるというバッハからの警告でもあろう。
第25番J.へールマン作詞(1630)第三節 クリューガー旋律<Was ist die Ursach aller solcher Plagen?>
♪曲を聴く
こうした苦しみのすべての原因は何なのですか
ああ、私の罪があなたを打ったのです。
私が、ああ主イエスよ、招いたことをあなたが耐えておられるのです。
第3曲と同じコラールの第三節。テノールソロの合いの手として断続的に出現する。この歌詞もまた第16番のコラール同様、イエスが「私」に代わって罪を贖ってくれた、という思想を表現している。
このコラールの編曲はバスが主として八分音符で動くのが特徴であるが、これはテノールソロの通奏低音が常に16部音符でバンバンバンバンと動いているので単にそれに呼応するための処置と思われる。(第25番のページのページ参照)
第31番アルブレヒト作詞(1554)第一節、セルミジ旋律<Was mein Gott will,das gscheh allzeit>
♪曲を聴く
神の御旨がつねに成就しますように。
神の御旨こそ最良のもの。
神は助けを備えていてくださる、自分を固く信じる者たちへの助けを。
苦難から救い出してくださる、慈しみ深い神は。
そして応分にこらしめてもくださる、神に依り頼み、神に固く立つ者を。
こうした者を神がお見捨てになることはない。
このコラールは直前のイエスの言葉「神の御旨が行われますように」を受け、神への信頼を歌うものである。実はこの少し前にイエスは神の杯を飲む(それはイエスの死を意味していた)を拒否しようとしていた。イエスといえどもやはり死の苦悩があったのである。(こうした見方は伝統的な神学とは異� ��るのかもしれないが、筆者はそう思う) したがってこのコラールはそうしたイエスとともに会衆もまたとにかく神の御心にかなう姿であるべきだ、ということをも歌っているのだと思う。
第35番S.ハイデン作詞1525)第一節、グライター旋律<O Mensch,bewein>
「マタイ」第35番
コラール編曲(BWV402)
おお人よ、お前の大きな罪をなげくがよい。それゆえにキリストは父のふところを出て、地上へと下ったのだ。
清くやさしいひとりの乙女から、彼は私たちのためにお生まれになった。
彼は人と神の仲立ちをしようとされ、死者たちに命を与え、すべての病を除かれた。
しかし時は押し迫り、彼は私たちのためにいけにえを捧げられ、私たちの罪の、重い荷を背負わされた。
十字架につけられて、長いこと。
第一部のしめくくりとして歌われる大掛かりなコラールファンタジー。イエスの生涯全体を俯瞰し、これから第二部で起こることをも予測している。要するに膨大な新約聖書の物語をこれだけの字数� ��要約しているともいえる。
このコラールファンタジーも第一曲同様、元のコラールがバッハお得意の手法で単なる四声体の編曲(といってもバッハの編曲なので非常に複雑なのだが)とはまったく違った見事な味に仕上がっている。上記のMIDIで比較してみてください。
第38番ロイスナー作詞(1533)第五節 <Mir hata die Welt trueglich gericht'>
♪曲を聴く
世は私に欺き仕掛けた、嘘と不実な作りごとによって、多くの網とひそかな罠とを。
主よ、この危険の中で私をかえりみ、不実なたくらみから私を守ってください。
第37番より大祭司カヤパらによって無実のイエスを死刑にしようとする場面が始まるが、このコラールはカヤパらによる陰謀の最中に闖入する。
このコラールで注目すべきは最初の主語が「世(Welt;このドイツ語には"人々"いった意味もある)」となっていることである。すなわちバッハはこのコラールを引用することによって、こうした悪巧みをするのは決してカヤパたちのような一部の権力者だけではない、こうした悪巧みは誰でもやる可能性がある、ということを示そうとし� ��のである。(まさにキリスト教は性悪説なのだ)
そしてまたこのコラールでは"不実なたくらみから私を守ってください"と歌う。つまりイエス=私なのだ。イエスがこうむった不実なたくらみは私の受けた被害でもある、ということである。
第44番P.ゲーハルト作詞(1647)第三節 イザーク旋律<Wer hat dich so geschlagen>
♪曲を聴く
誰があなたを打ったのですか、私の救いよ。
あなたの苦痛をかくもひどく与えたのは誰ですか?
あなたは罪人ではありません。
私たちとその子らのようには。
あなたは悪事を何もお知りにはならぬ方なのです。
イエスに殴る、蹴るの暴行を加え、暴徒と化しつつあった民衆の騒ぎをこのコラールが冷静に受け止める。このコラールの歌詞は第16番の歌詞と趣旨を同じく、「私たち大衆は罪人(つみびと)である。それに対しイエスは無辜である」という内容である。イエスをあれだけあざけり笑った民衆に対し、このコラールに代表される他の民衆が今度はまたそのイエスに対し、これだけの理解を示すのである。
両者の主張は正反対であるが、結局人間というものはどちらにもなりうるということだ。あるときはイエスを嘲り笑う側に、あるときはイエスをいたわる側に。人間というのはすべてこうした二面性を持っているのだ。絶対悪の人間などめったにいないし、絶対善の人間もいない。人間は環境その他でどちらにもころぶのである。今日、コラールの側にいた人間が、明日イエスをあざけり笑う側にならない、という保証はない。
第48番リスト作詞(1625)第五節、ショープ旋律 <Bin ich gleich fon dir gewichen>
♪曲を聴く
たとえあなたから離れてもきっとまた戻ってゆきます。
御子が私たちを不安と苦しみによって贖ってくださったのですから。
私は咎を否みません。
しかしあなたの恵みと愛は罪よりはるかに大きなものなのです。
たえずこの身に宿る罪よりも。
有名な「我をあわれみたまえ」のアリアの直後に現れるコラール。イエスを裏切ってしまった悔悟を歌うアリアに対し、コラールではその反省を踏まえた上で未来への決意が歌われる。このコラールにより、「マタイ」数曲にわたって続いてきたペテロの罪は昇華されるのである。次の第49番からはいよいよポンティオ・ピラトによる裁判が始まるので、このコラールは場面の区切りのピリオドの� ��割を果たしているといってよい。
第53番ゲールハルト作詞、ハスラー旋律<Befiehl du deine Wege> 第1節
♪曲を聴く
お前の道と心のわずらいとを誠かぎりない護りに委ねなさい
天を統べる者の、雲、大気と風に道を備え、
それらをめぐり行かせる者は、道を見つけてくださるだろう。
お前の歩むことのできる道を。
受難コラールの三回目。第49番より始まっているピラトによる裁判の中途に闖入している。事実経過としては結局イエスはいかさま裁判に屈することになるのだが、それは"定められた道"であり、それが神の御意志である、と歌っている。
第55番へールマン作詞、クリューガー旋律<Wie wunderbarlich> 第4節
♪曲を聴く
なんと驚くべき刑罰だろう!
よい羊飼いが羊にかわって苦しみを受けるとは。
正しい御方である主が、負債をつぐない、その下僕に代わって。
すでに暴徒と化していた民衆は総督ピラトでさえ手のつけられない状態となってしまっていた。そしてピラトはついに裁判官としての自己の職分を放棄、イエスの取り扱いを民衆の判断に委ねる。民衆は即座に"イエスを十字架につけよ"と叫ぶ。
こうした理不尽な人間の残虐さをこのコラールが歌い上げる。"よい羊飼い(イエス)が羊(民衆)に変わって苦しみを受ける"というキリスト教思想がここでもまた執拗に繰り返されている。
このコラールは第3番、25番と同じ旋律であるが� �歌詞の内容に合わせて特殊な編曲がなされている。
第63番P.ゲーハルト作詞(1656)第五節、ハスラー旋律<O haupt>
♪曲を聴く
おお、血と傷にまみれ、苦痛と嘲りに満ちた御頭(みかしら)よ。
おお、愚弄のためいばらの冠を結われた御頭よ。
おお、つねならば美しく至上の誉れと飾りで飾られた御頭よ。
それが今、侮辱にさらされている。あなたにこそ、私の挨拶を送ります。
気高い御頭よ、つねならば
世の権威も恐れ避ける御頭よ。
あまたはかくも唾され、かくも青ざめている。
その目の光、世に比べるもののない光を
誰がこれほどに傷つけたのですか。
受難コラール四回目。前3回とは対照的に短調で開始されるために、悲壮感漂う雰囲気になっている。(第63曲のページのページ参照)いうまでもなく「マタイ」全体の要となるコラールであり、民衆から(権力者からではない !)死刑宣告を受け、茨の冠をかぶせられ、緋色の衣を着せられ、血潮にまみれ屈辱の限りを味わったイエスへの同情と愛を歌っている。
イエスがこのような惨めな姿をさらすなんて・・・。このような気高きお方がなぜこのような屈辱を受けるはめになってしまったのか・・・。最後の一節、"誰がこれほど傷つけたのですか"は意味深い。結局イエスをこのような目にあわせてしまったのは私達普通の人間なのだ。決して一部の権力者だけなのではない。
このコラールを読むだけでキリスト教は悪いことはなにごとも資本家や権力者のせいにしてしまうマルクス主義とはまったく正反対の思想を持っているということが理解される。
さらにまた2003年に起きたハンセン氏� ��回復者への差別問題などもこの延長線上にある。当時の民衆がイエスに対しておこなった罪を現代の私達は性懲りもなく繰り返しているのである。
第72番P.ゲーハルト作詞(1656)第五節、ハスラー旋律<>
♪曲を聴く
いつか私が世を去るとき、私から離れないでください。
私が死に瀕したとき、どうか姿をあらわしてください。
この上ない不安が私の心を囲むとき
もろもろの不安から私を引き出してください。
ご自身の不安と苦痛の力によって。
受難コラール五回目でイエスの絶命直後に歌われる。教会旋法の一つであるフリギア旋法で和声付けされ、イエスの死後のしめやかな雰囲気がかもし出されている。
J.S.バッハマタイ受難曲へ戻る
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